中学特別支援学級から国立大学へ行けた話
今回は、中学校特別支援学級(情緒)から地方国立大学に合格できた話をしたいと思います。
大学が視野にすら全く入っていなかった中学
中学校の頃、私は特別支援学級(情緒)に所属していて、大学など全く考えられない生活を送っていました。とにかく生きているのが楽しくない、早く〇ね無いかなとか、とにかくネガティブなことを考えていました。毎日、天に向かって〇にたいとお祈りをしていたときもありました。当時の年下に叩かれたりしていた日もありました。
何か変わるかもと思った高校1年
私はパソコンが好きだったため、パソコンが学べるコースがある高校に入学しました。入学前は不安でいっぱい、とにかく叩いたりしてくる人がいないことを願っていました。
高校の最初のパソコンの授業での出会いが私の人生を変えました。それは現 if(塾) 塾頭である高崎先生との出会いでした。専門コースの非常勤講師としてきていた高崎先生、初めて会ったときの挨拶は「ウィッスー」でした。(懐かしい)高崎先生と出会った最初の授業、私は「(ここなら何か出来るかも)」というワクワクになったことは今でも忘れません。そこからホームページ制作、自作パソコン制作、起業家交流会参加など1年生の頃から学校や外部で色んな活動ができ、起業もし小さい場所ではありますが、1歩社会を見れた気がしました。大学とか進学とか進路とか関係無く、自分が楽しく取り組んでいた記憶があります。
少し悩んだ高校2年
2年生になり、ホームページ制作も一段落したところで次の活動を考えた際、みんなで相談した結果プログラミング塾(現 if(塾))をやろう!となり、塾を作ることになりました。なんせ私は事業を立ち上げたことが無かったので少し考えるのが難しかったことが多かったですが、まずは自分の出来る事からやろうと思い、マインクラフトで建築をしたりサーバーを構築したりしていました。しかし中々事業を形にしていくのは難しかったです。そこで1つ大きなキッカケとなったのが秋田県が主催している「若者チャレンジ応援事業」へ参加したことでした。高崎先生から400万とれるから応募しようよ。と言われて、私は一瞬「本当かよ」と思ってしまいました。そこから若者チャレンジからのメンタリング支援などもあり、高崎先生や仲間と少しずつ形にしていくことが出来ました。1次、2次の書類審査を通過し、最終のプレゼン審査ではスライドソフトを使わずマインクラフトにプレゼン資料を表示させて、スライドかのように見せました。その結果、なんと一般枠200万円での採択が決定したのです。これまで少しずつ進めてきて形も見えずに悩んだ時期もありましたが、1つ形として認めて貰えることが出来たと思えた出来事でした。
この頃、若者チャレンジの採択が決まる少し前、私は進路に凄く悩んでいました。高崎先生から「え?まだ何も考えてないの?」と言われてしまったほどです。進学と言われてもどこを見ても何かしっくりこない日々、勉強をほぼせず課外活動、事業活動一本で突っ走ってきたので、興味が合いそうな場所が中々無かったことも多かったです。勉強がそこまで出来ない私にはやはり何も出来ないのか?と考えてしまうことも多かったです。進路に悩み調子を崩し、学校での人間関係が上手くいかなかったこともあり、クリスマスに1人で家出するくらい高校2年の冬はとても辛かったです。
しかし年が明けてから、1つ面白い話が飛んできました。それはテレビに出演するという話でした。高崎先生が初詣に行った際に、たまたま取材を受けて「事業を始める」と話をしたら向こうの人が「取材していいですか?」となったのです。実際に取材を受けて、テレビで放送され思いのほか反響が大きかったです。そこでディレクターの人に「高校生のうちからそこまで考えてやってることは凄いよ」と言ってもらえたことは今でも覚えています。
2月頃、親からあることを言われて「今度、大学に興味が合いそうな新しい学部ができるよ」と言われました。見てみると地域課題解決を主に学ぶ学部でした。親から「ここで推薦とかだったら行けるんやないか?若者チャレンジに通った人はおらんやろうから」と言われて、もしかしてここなら行ける?いけたら国立?と思いました。
常に走っていた高校3年
3年生になり、本格的に進路が近づいてきたところで、if(塾)もいよいよ開業となりました。塾生を集める、授業をする、企業と交流をする、イベントに参加をする、イベントを開くなどと様々なことをしていました。新しい体験が増えていくなかで、学校と仕事をこなすということが少し難しかったです。学校に行って放課後に活動をする、平日の放課後に、ほぼ空きがなくなっていました。しかし、それ相応のお金には換えられない体験がとても多くできました。ここには書き切れないほど色々活動していたと思います。大学の試験内容が「面接・集団討論」で、面接練習や集団討論の練習などもしていました。しかし練習も大事ですが、それまでやってきた活動の中で色んな人に話をしてきたことや、活動を考えて取り組んできていたということが、何より受験で出るということが身に沁みて感じました。私の受験の目標があり、受かっても落ちても後悔がないようにするということでした。推薦試験は運要素がどうしてもあることもあり、どれだけ上手くやっても最後は運で決まる部分があると思っていたこともあるので、出来る事はやるということを意識していました。ここまで一番変わったなと思う部分が、大学を全く考えられなかった私が今、国立大学を受けることが出来るくらいまできた、ということが成長を感じるところでした。
受験前に一番自分が取り組んだなということは、投資家の方を招いて秋田県とイベントを開いたことでした。大学に入ってからの活動予定の中に、イベントへの参加・主催とあり、受験前にイベント主催してくる高校生は絶対いないでしょと思いました。投資家の方が来てくれると決まってから、イベントを開いたことが無く何をすれば良いか分からなく困っていました。しかし協力を呼び掛けたところ、色んな人が快く協力してくれました。実際、当日は上手く回せるかやイベントが成立できるかかなり不安でしたが、協力者の多くの活躍もありイベントは成功させることが出来ました。イベントが無事終了してから投資家の人とif(塾)のメンバーで食事に行かせていただいたのですが、そこで投資家の人に言われたことが「皆勤賞は褒めることではない、休むことがちゃんと大事」と言われたことでした。そこまで3年連続で皆勤賞だったのですが、その一言が私の中で刺さり数日後、学校を初めて休みました。受験まで数日休んだのですが、休んだことにより体が整い、一時期よりかなり元気になり、受験日は元気な状態で受けることができました。
試験の自分なりの評価ですが、面接がタイマーを設置されてしまっことにより思ったよりも上手く受け答えが出来ませんでしたが、集団討論は普段からミーティングをこなしていたことにより、上手く回すことが出来ました。ということもあり、受かっても落ちても後悔はないでしょうと思えることが出来ました。
実際合格して思ったこと
合格発表日、私は少しどうなるのかなとソワソワしていました。どっちの結果だろうがそれぞれの人生があると思っていたので、最後はなるようにしかならないと思っていました。結果が公開されて、合格者の中に自分の番号が出ていることが分かり、自分は合格したのだなと思いました。安心感も少しありましたが、それと共に大学で上手くやっていけるかなという不安も少し湧いてきました。一番自分の中で嬉しかったことが、中学特別支援学級から国立大に行けるということと、大学が勉強だけでなく実績や活動を見てもられる時代になったということを、証明出来たことが、自分の中での大きな達成感がありました。私の結果を見て、今後後輩やif(塾)の塾生から自信をもって、チャレンジしてくれる人が現れたら私は嬉しいです。